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気がついてしまうことがある。
他人の言動の動機に。
もしかしたら、いや、ほぼ確実にわたしの傲りなのだろうけど。他人の言動の違和感をよく感じ取ってしまうのだ。
ちょっとトゲがあるな、どうしたんだろう。
この人本当はそんな事思ってないな。
あぁ、この人シャカリキ風だけど実は辛いな。
一生懸命、知的に見せてるけど学歴コンプレックスかな。
などなど。
特に男性は分かりやすい。たぶん、たくさん戦わないといけないものがあるのだろう。
ポットキャストのラジオ番組で、ある男性が話しているのを聴いていたとき。
その男性は30代前半だと自分で言っていた。年齢的にはまだまだお若い部類だろうが、30代の若さは20代のそれとは全く違うだろう。でも、わたしは彼の声や言葉の選び方を聞いていて、20代半ばから後半くらいの方だと感じていた。
彼は自分で自分のことを「精神年齢はおじいちゃん」と言っていたが、絶対そんなことはない。「悟りたい20代後半」だろ、と思った。
そもそも、本当に精神年齢が高齢な人間はそんなふうに自分のことをわざわざ表現するだろうか。
彼は他人のため、社会のために自分は事を成すともよく言っているのだが、本当に自分の行為を自分以外の利益に繋げている人は絶対にそんな風には言わない。
自分以外の何かのためになる、というが実に難しいことかを理解しているからだ。他人の為というのは、至難の技なのだ。自分の勝手な判断じゃないか?相手を軽んじていることにならないか?共依存になっていないか?
それを本当に相手が望んでいるか?それが長期的にどんな影響を及ぼすか?
どこまで行っても分からないのだ。
それが誰かの役に立ったかなんて。何十年も先に結果がでるかもしれないのだ。その結果を見届けることができず、自分の手を離れたら責任をとることもできないのだ。
だから、誰かのために、何かのために事を成したい人はただ、「それをしたい。それがわたしのやりたいことだから。」と言う。「役に立ちたい」とは思っていたって、口が裂けても言えないのだ。おこがましいから。それは相手へのリスペクトでもあり、お気遣いでもある。
彼は認められていることを自覚したいのだろう。両親からの愛情を価値観・人格形成の要としていることからも、他者からのそれを重要視しているのだ。負けん気も強いけど、他の同じような立場の人を凌駕できるくらいのスペックがないことを薄々自覚しているが、認めたくないのだろう。
こんなふうに気になった誰かを分析してしまうのだ。
趣味の悪い癖なのだが、ときに、これとまったく同じプロセスで誰かの内に秘めた悲しさや怒り、理不尽な経験を思いやりやユーモアに変えているのを発見することもある。そんな時は、心が震えるのだ。勇気と優しさを見せつけられ、自分のなかに情熱がともるのを自覚する。
先日、コンビニで真剣に夕食を選んだいたときのこと。
わたしの横で同じく夕食をチョイスしているらしかったお爺さんがいた。ちょっと足元が覚束なく、杖をつき、ヨタヨタ気味にレジに行き、もたつきながらタバコを購入していた。お耳も遠いようで、お会計のやりとりも時間がかかっている。混んでいない店内だったが、いつの間にかお爺さんの次には、作業着を着た日に焼けたお兄さんが並んでいた。
ようやくお会計のやりとりに終点が見えたのか、お爺さんが後ろを振り向き、
「お待たせしてしまって申し訳ありません。」
と並んでいるお兄さんに頭を下げたのだった。
すると、お兄さんは
「いいえ、大丈夫ですよ。」
と穏やかに返し、お爺さんがレジから離れる際にも、
「お気を付けて。」
と優しく声をかけていた。
すごかった。お爺さんの配慮や積極性はもはや流石、人生の大先輩、そういうふうにすれば良いのかといったところであるし、お兄さんもお応えもとても品があり、お心遣いがスマートだ。
お二方とも、お育ちの良さを感じた。
良い家庭に生まれたかどうかは知らない。そういうことではなく、きっと自分を大切にし、ご自分なりに教養や知性を身に付けておられるのだろう。
良きにも悪しきにも、他人の言動は非常に面白く、そこから様々な洞察ができるということだ。
わたしはわたしをどうように洞察するのだろう。