やり遂げた

約1年前に母親との縁を切りました。

すごくホットしました。

心にあった重い石が砂になって飛んでいきました。

すごく嬉しくて、やり遂げた自分に感謝したのは、4匹目の愛猫ちゃんを連れてこれたこと。

あの場所から一緒に脱出できてよかった。

自分の家で、夫と愛猫ちゃんと私。

大正解だっと身に沁みている。

 

私の実家は少し生きづらい場所。

少し面倒、やれなくないけど煩わしい、そんなのが長年積み重なると、めっちゃ重くなってる。

 

なーんだ簡単に捨てられた。

良かった。

もう会うこともない変な人達、親兄弟なんて捨てていいと教えてくれてありがとう。

さようなら、ありがとう。

お疲れ様でした。

 

日記を書きたくなった

久しぶりに文章を書きたくなった。

とりとめのないことを自分の為に書き連ねよう。

 

今日はオーダーブーツの採寸に来てもらったよ。丁寧にやってくれて、安心しました。

わざわざ都内から自宅まで来ていただきありがたや🙏

 

素敵なブーツが届きますように。

一緒にたくさん楽しい時間を過ごそうねー。

 

少子化対策と声高にする人達に言いたいこと

2019年の日本の合計特殊出産数は、1.36と1899年の調査開始以降、過去最少だそう。

以下、記事の転載。

2019年の出生数は、1899年の調査開始以来もっとも少ない86万5,234人。前年の91万8,400人から5万3,166人減り、4年連続で減少している。

 出生数を母の年齢(5歳階級)別にみても、すべての年齢階級において前年より減少。母の年齢が40歳以上の出生数は5万840人で、このうち第1子は1万8,378人。40歳以上の出生に占める第1子の割合は36.1%であった。第1子出生時の母の平均年齢は5年連続で30.7歳。

 合計特殊出生率は1.36で、前年の1.42から0.06ポイント低下した。母の年齢(5歳階級)別にみると、すべての年齢階級で低下し、もっとも合計特殊出生率が高いのは30~34歳であった。

https://resemom.jp/article/2020/06/08/56620.html

いつも思うことなのだが、少子化対策をしろ、子供を作って育てている家庭には税負担を軽くしろ、現金を支給しろ、不妊治療を保険適用にしろ、etc。

これらを若い世代、20代〜30代前半の人が真剣に訴えているのを見かけたことがない。

まぁ、あくまで私がね。

少子化対策を求めているのは、既に産んだ人達、家庭なのだ。女性も男性も30半ばも過ぎれば、妊娠確率が下がるのが一般的なのか、出産を迎えるには肉体的に厳しくなっていても不妊治療とやらで頑張っているらしい。

不妊治療はなかなか高額で、着床にたどり着くまで100万単位のお金が動くらしい。

決して安くはない金額と、おそらく膨大なエネルギーと、多くの時間を懸けて取り組んでいるのだろう。

何にも知らない私でさえ、なんだかしんどそうだなぁと感じるその一連の行為を何が支えているのだろう。

お金と時間の使い道、ゆうなれば、かけがえのない自分の命の使い道を選べる自由な日本において、あえてそれを選ぶのは何故か。

おそらく、欲だろう。

どういった欲かは分からない。

純粋に子供が好きなのかもしれない、我が子に出会いたい欲、出産をしてみたい欲、育みたい欲。

こんな欲ならいいのかもしれない。

出産、子育てが人生の形のデフォとなっている今日においては、社会的な承認を受けたい欲、形にはまりたい欲、成果物を得たい欲、かもしれない。

なんでもいいが、つまるところ、個人的な欲を満たすためにやっている行為なのだ。

私は、どうして個人的な欲を満たすための行為に、公的な助成が必要なのか、と問いたい。

既に、そんな大枚をはたいて不妊治療を行なっているのだ。経済力がないほど弱い存在だとは言わせない。

お金がないから産みたくても産めないとは言わせない。

出産、子育てだけでなく、人は本当にやりたいことがあるとき、お金も時間もなくても、どうにかしてやってしまう。それをやることが、生きることだと潜在的に知っているから。

お金がないなら、産まなくてよろしい。

やる気がないなら、やらなくてよろしい。

少子化対策は、子供付きの幸せな家庭をもつためのツールではない。目的は日本の労働人口の確保、社会保険料の支払い手の確保、GDPの向上、そう、経済対策なのだ。だから、これらが、他の手段によっても達成できそうであればそれで良いのだ。

私は、自分の欲によって子をなした人達、子をなしたい人達が、政府に(日本国民に)タカる姿勢が許せない。

なんて依存心が強く、無礼で、卑しいのだろう、と思う。

あなた方の依存心や卑しさを許すことが、日本に長期な利益をもたらすか?答えは否だ。

少子化対策先進国としてフランスがよく例に挙げられるぎ、フランスにおいても一時出生数が上がったが、近年は減少が続いている。

どうやら、先進国の人間は経済的に楽ちんなら、出産・子育てをするわけではないらしい。

やりたかったら、やるだけじゃない?

そして、先進国においてはやりたい人が減っていますよってこと。それはきっと対策の効果が及ぶ領域ではないのだろう。そもそも、きっと原因なんて突き止められない。ずーっと後に時代や自然の摂理と無理やり原因つけるしかないのだ。

それに、全世界規模でみれば人口は決して減少していない。むしろ増加している。この事実を受け止め、来たるべく新しい世界観を見出し、適切に対応すべきじゃないか?それは、純血の日本人のいなくなっていく世界かもしれないし、経済規模が今より小さくなった世界かもしれない。それに本当にポジティブな面がないのか?そうなっても達成できることは?そういう世界だからこそ高まるパフォーマンスとは?

一部の卑しい国民の期待に応えんとすることも政治活動なのかもしれないが、和して同せず。わたしはそういう世界を頭の片隅で描いているし、きっとそういう人達は少なからずいて、今も淡々と水面化で事を進めているのだと思う。

気がついてしまうことがある。

他人の言動の動機に。

もしかしたら、いや、ほぼ確実にわたしの傲りなのだろうけど。他人の言動の違和感をよく感じ取ってしまうのだ。

ちょっとトゲがあるな、どうしたんだろう。

この人本当はそんな事思ってないな。

あぁ、この人シャカリキ風だけど実は辛いな。

一生懸命、知的に見せてるけど学歴コンプレックスかな。

などなど。

特に男性は分かりやすい。たぶん、たくさん戦わないといけないものがあるのだろう。

ポットキャストのラジオ番組で、ある男性が話しているのを聴いていたとき。

その男性は30代前半だと自分で言っていた。年齢的にはまだまだお若い部類だろうが、30代の若さは20代のそれとは全く違うだろう。でも、わたしは彼の声や言葉の選び方を聞いていて、20代半ばから後半くらいの方だと感じていた。

彼は自分で自分のことを「精神年齢はおじいちゃん」と言っていたが、絶対そんなことはない。「悟りたい20代後半」だろ、と思った。

そもそも、本当に精神年齢が高齢な人間はそんなふうに自分のことをわざわざ表現するだろうか。

彼は他人のため、社会のために自分は事を成すともよく言っているのだが、本当に自分の行為を自分以外の利益に繋げている人は絶対にそんな風には言わない。

自分以外の何かのためになる、というが実に難しいことかを理解しているからだ。他人の為というのは、至難の技なのだ。自分の勝手な判断じゃないか?相手を軽んじていることにならないか?共依存になっていないか?

それを本当に相手が望んでいるか?それが長期的にどんな影響を及ぼすか?

どこまで行っても分からないのだ。

それが誰かの役に立ったかなんて。何十年も先に結果がでるかもしれないのだ。その結果を見届けることができず、自分の手を離れたら責任をとることもできないのだ。

だから、誰かのために、何かのために事を成したい人はただ、「それをしたい。それがわたしのやりたいことだから。」と言う。「役に立ちたい」とは思っていたって、口が裂けても言えないのだ。おこがましいから。それは相手へのリスペクトでもあり、お気遣いでもある。

彼は認められていることを自覚したいのだろう。両親からの愛情を価値観・人格形成の要としていることからも、他者からのそれを重要視しているのだ。負けん気も強いけど、他の同じような立場の人を凌駕できるくらいのスペックがないことを薄々自覚しているが、認めたくないのだろう。

こんなふうに気になった誰かを分析してしまうのだ。

趣味の悪い癖なのだが、ときに、これとまったく同じプロセスで誰かの内に秘めた悲しさや怒り、理不尽な経験を思いやりやユーモアに変えているのを発見することもある。そんな時は、心が震えるのだ。勇気と優しさを見せつけられ、自分のなかに情熱がともるのを自覚する。

先日、コンビニで真剣に夕食を選んだいたときのこと。

わたしの横で同じく夕食をチョイスしているらしかったお爺さんがいた。ちょっと足元が覚束なく、杖をつき、ヨタヨタ気味にレジに行き、もたつきながらタバコを購入していた。お耳も遠いようで、お会計のやりとりも時間がかかっている。混んでいない店内だったが、いつの間にかお爺さんの次には、作業着を着た日に焼けたお兄さんが並んでいた。

ようやくお会計のやりとりに終点が見えたのか、お爺さんが後ろを振り向き、

「お待たせしてしまって申し訳ありません。」

と並んでいるお兄さんに頭を下げたのだった。

すると、お兄さんは

「いいえ、大丈夫ですよ。」

と穏やかに返し、お爺さんがレジから離れる際にも、

「お気を付けて。」

と優しく声をかけていた。

すごかった。お爺さんの配慮や積極性はもはや流石、人生の大先輩、そういうふうにすれば良いのかといったところであるし、お兄さんもお応えもとても品があり、お心遣いがスマートだ。

お二方とも、お育ちの良さを感じた。

良い家庭に生まれたかどうかは知らない。そういうことではなく、きっと自分を大切にし、ご自分なりに教養や知性を身に付けておられるのだろう。

良きにも悪しきにも、他人の言動は非常に面白く、そこから様々な洞察ができるということだ。

わたしはわたしをどうように洞察するのだろう。

ただいま。

雷が鳴っています。 雨も降っています。

愛しの猫にゃん達と昼間の嵐をのほん、と堪能しています。とても良い時間です。

7月の半ばから、わたしのライディングに非常に良い変化が訪れた。変化のきっかけはあるプロフェッショナルな方との出会いだ。

その方は、身体のポジショニング、身体の動かし方のプロフェッショナルなのだ。

わたしはその先生の門を叩いた。

わたしが乗馬をしていること、愛馬とのライディングでつまづいてしまうこと、なかなか解決できない慢性的な悩みを抱えてていることを話した。

先生は乗馬、馬術をされたことはない。

でも、乗馬、馬術を含めた様々なスポーツ、ダンスや歌、楽器演奏、演技など身体を使ったパフォーマンスに則した身体の使い方、考え方、ポジショニングを知っていて、それに汎用性を持たせることができるのだ。

限られた時間内で、クライアントの課題に沿った身体のポジショニング、使い方、考え方を伝授し、自分のものとさせる。これができるのだ。

餅は餅屋。

何を誰に頼るかがポイントだ。

残念ながら、人間の身体のことは馬術の専門家には分からない。自分はできていても、それをアカデミックに解説し汎用性を持たせることはできない。

ずっと、自分の課題をセクターごとに分け、セクター毎のプロフェッショナルに頼りたかった。

今回それができて、本当に嬉しい。

何度でも言いたい。

餅は餅屋に聞け!

巷でよく言われていることだが、理解されない、うまく伝えられない、的外れな返答…

これらは自分や相手の問題ではないかもしれない。

分野が違うのだ。

聞く相手を間違えている。

聞きたい分野のことを、その分野の専門家に投げかけることさえできれば、多少言葉が拙くても分かってもらえる。

「あっ!こういうことですかね?」

「そうです!」

このやりとりができるなんて、感激だ。

聞く相手が合っているかどうかは、やりとりのスムーズさと、自分の頭がクリアになる感覚、自分の身体が納得している感覚、そして何より愛馬のパフォーマンスと心が教えてくれた。

改めて、才能溢れるプロフェッショナルに感謝と尊敬と拍手喝采をお贈りさせて欲しい👏

久しぶりに書いている。

コミニュケーションは難しい、ふとしたことで、ふと悶々とし、イライラしながら思い至った。

言葉を人に伝えるまでに、少なくとも自分の意図をはっきりさせなければいけなかったのだ。

なんとなく言葉を発して、なんとなくな展開になった。

私はこういうのが好きではない。

後から考えてみて、過去のやりとりを振り返り、検討してみると、じゃあなんであの時あの選択をしたのだろう、この展開じゃ過去の経緯は無駄だったってことだな、これはあの人の意図したことではなかったのではないか、私のこの選択はよくなかったな、など。

色々、振り返ってしまう。そしてなんだかイライラする。私は効率的でシンプルが好きだから、混み入った状況や相手の出方次第、みたいな予測不可能、その場の雰囲気で〜みたいなスタンスでいることが解せない。

効率的でシンプルは、人生を易しくしストレスをなくし、物事をじっくり味わうことができる。

まぁ、これも無論考え過ぎなのだろう。

何も考えず、自分の真実を作らず、真理や矛盾と向き合うとしない人間は、さぞかし生きるのが楽であろう。

そんな人間はリスペクトできないし、その雑さが不衛生だと感じるので、そんな人間にはなる気はないのだが。

人生を真剣に、物事や自分に関わってくれる他人を思い遣ることができる人間の勤めとして、この悶々を受け止めようと思う。

朝の9時です。

最近昼近くまで寝ていることがなくなった気がする。

動物と生きていくには、体力も非常に大切。

暴飲暴食をせず、まったく食べないことも避けて、きちんと身体に栄養を与えて、夜は早めに就寝して、体力をチャージさせて1日を迎える。

ここ数日、馬分野の悶々が続く。理由はわかっている。

上達を感じないからだ。やろうと思ったことをやれていないからだ。自分と今の状況にフラストレーションを抱くからである。上達を感じないのは正直辛い。人間は物事が良くなっている実感を受けて、自分で自分に納得したり、進んでいる道が合っているかの確認をしていると、私は思っている。

物事の適度なスピードと角度での上昇は、心身に健康をもたらすのだ。

物事をより良くしようと意図し、継続し、自分なりに創意工夫をしているにもかかわらず、全く良くなっていないと感じたら生きる意味を見失ってしまうだろう。

それでは生きている甲斐がない。

まったく、わざわざ生きている甲斐がない。

このような状態であるときに、私は以下の事を把握したいと感じる。

1 この物事における適当な創意工夫の行動は何か。

2 自分はそれをしているか。

3 自分が意図している物事の上達にかかる時間の目安と成就しない可能性について。

ざっと見渡してみて、これらを把握することができれば安心して物事に取り組むことができる。

安心して、長期間に渡り物事に取り組むには、創意工夫の行動は行うに非常に易しく、出来ない事(上手に出来ないではなく、行為自体を行えない)は避けるべきてある。

物事は簡単なほど良い。

長期に渡るルーティンのひと時として、楽しみや刺激を加えるために、敢えて難しいことをやるのだ。

3は自分の許容範囲を広げ、意図しない状況をストレスなくやり過ごしたり、上達という意図以外の別の意図の可能性を見出すために必要だ。

往々にして、物事の上達には時間がかかるようである。株式投資においては、株式の平均リターンは15年で平均方向へ回帰する。ストック、あるいはストックによるフローの上昇を必ず、確実、といったものにするならば15年は最低限でも必要になるのだ。その15年の間には、暴落や、バブル、緩やかな上昇相場、ある期間続く下落相場がある。そのひと時のみを切り取って見てみたら、すごく上昇している、すごく下降している、たいして上昇していない、ちょっとづつだけど上昇している、だんだん悪くなっている、と極端な感想を抱くのだろう。

だが、15年経過した時点では、その間にどんな瞬間があろうとも同じ結果になる。7%の運用益。

株式投資と他の物事に、どれほど共通項があるのか分からないが、少なからずある気がしている。調べたいことだ。さらに、共通項が多いと非常に助かる。何故なら、私は株式投資の上達のプロセスを知り、理解し、感情的にも納得しているからだ。学習に費やす時間は多めだが、その学習行為を含めて日々やることが簡単で、感情的なフラストレーションも少ないからだ。日々数字は増えていることに甲斐を感じるし、減っていても平均回帰の原則とそのような時に行うことを知っているので、迷わない、「自分はこれでいいのだろうか」というフラストレーションがない。下落相場で狼狽売りしたり、怖くなって買えなかったり、焦りからリスク許容度を無視した金額を買い付けたり、といった御法度を行わず、淡々とやるべきことをやっている自分を誇らしいとも感じる。自尊心が満たされるのだ。そして、その行為が自分にとって良い結果を生むとも信じることができている。

私は投資に向いていると思える。

投資なんて簡単だ。そもそもやること(できること)が限られているのに、どうしたら難しくやれるのか。

そう思える私は、きっと投資と上手に付き合えているのだろう。

是非とも、この感覚を馬分野でも共有するべきだと思う。

物事は簡単であればあるほど良い。